「お茶壺道中」
江戸時代、毎年、新茶の季節になると「お茶壺様」を駕籠(かご)にのせた華麗な行列が宇治−江戸間を往復しました。
人々はこれを
「お茶壺道中」と呼びました。

ことの起こりは、寛永10年(1633年)徳川三代将軍、家光のときに始まったと言われています。

道中は徒歩頭一人が宰領となって、茶道頭一人、茶道衆二人と若干の徒歩衆、同心衆を伴うものであったのですが、運搬する茶壺の増加につれて警備役人の人数も増え、四百名を超える大行列になり、盛大にお茶壺道中が行われていました。
お茶壺道中という将軍家の行列、しかも摂家、宮門跡に次ぐ高い位を授かっての権威に、大名たちは道中で行き会うことがあれば、道をあけて先に通すことになっていました。

「下にぃ、下にぃ」と通る行列に民衆は土下座し、少しでも粗略な態度を見せると、容赦なく罰せられたそうです。また、行列に人馬を提供するものは、農繁期に重なり、本業を投げ打って使役に従事しなければならず、その苦痛は並大抵ではなかったと想像できます。

♪ズイズイズッコロバシ胡麻味噌ズイ 茶壺に追われて 
戸をピッシャン 抜けたーら ドンドコショ〜〜♪

の童謡からも、当時の民衆の道中に対する畏怖が伝わってきます。こうしたことから、お茶壺道中は、沿道の民衆にとって非常に迷惑であり、恐れられていたと考えられます。

豪華であったお茶壺道中も、八代将軍、吉宗の行った享保の改革による倹約令の一つとして簡素化され、江戸から宇治に運び出す茶壺は三個に限定され、幕府も経費削減を図りました。

こうして、毎年休みなく235回続いたお茶壺道中も、慶応3年(1867年)江戸幕府の終焉によって、その役目を終えることとなります。
しかし、お茶壺道中が終わってからも、宇治茶の名声が衰えることはありませんでした。

それは、宇治茶師が将軍家御用のお茶作りのため、日々研鑚に努め、創意と工夫を重ねて宇治独特の製法を編みだし、良質茶の生産に励んだため、すでに、日本の津々浦々にまで宇治茶の名声が知れ渡っていたからです。
今日における宇治茶の発展は、将軍家抜きでは語れないものとなったのです。

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